自分の言葉を大切に
言われたことをきちんとでなくて、自分で考えて行動するために

自由がいいと思いながら、ここは伝えたほうがいいんじゃないか(命の危険があることでもないのに)という矛盾が出ているように感じてきて、なんだかいま一度、境界線のようなものを考えていました。
自由って楽しいけれど、自分を理由にしていくことで、ラクじゃないなって思うことが時々あります。
人の言うことを聞く選択をしたのも自分。まわり関係なく自分を貫くのも自分。
その自己責任を育くめるように。と思っていたけれど、頼まれていないのに教えようとしたり、厳しくするのって、やっぱり逆効果なのかなと感じていて。
お好きにどうぞ。のほうが、長い目で見ると、自分から「こうしようかな」って動いたり、切り替わっていく気がしていて
ただただ、助けを求められるまで待てるかどうか。求められても、自分が犠牲にならないで、できる範囲のことをするかどうかなのかな、って。
これは、ふり落ちるまでたくさん失敗するんだなって思ったのですが。
自由に不安を感じるのって
このままずっとこうなのではないのか。
自分で立ち歩けなくなるんじゃないか。
わがままで迷惑かけるんじゃないか。
親の関わり方がよくないって思われるんじゃないか。
「せめてこれだけは」とこちらが決めているものを超えてきたときとか
もっとほかの経験を積んだほうがいいんじゃないか。
こうすればラクになるのに。とか
なんだと思うんですけど
これって、親として「導かないといけない」責任みたいなのを背負っていたり、心配のほうに目を向けていたり、いまの姿を変えようとしている時なんだなって、ハッとさせられました。
年齢があがるにつれて、〝この前できていたこと〟が戻ったように見えたりすると、それもうーん。って思っていたけれど
ぐーたらしていても、飽きるとちょっと動こうかなってなって、またぐーたらして、それ飽きるを繰り返している(私)
ギリギリ行動で「あっ、もっと早くすればよかったー」となり、早くしたらしたで「時間あるからコーヒー飲もうかな」みたいに、普段しないことをし始めて結局ギリギリ(私)
大人になっても、進んだり止まったりだなぁと。笑
そういえば、母は私が結婚するまでに「こうしたほうがいいと思う」と言ったことが2つくらいしかなくて
(いや、あったかもだけれど、何度も言われなかったのと、興味がないことは私が聞かなかったのか、、)
「えっ、それ知らなかった、、」ということがいっぱいあったけれど、困ったり恥ずかしかったりすると、自分から変わろうとして、なんかそのくらい待つでいいのだなと。
そして、菖蒲湯を子どもの日に浸かるっていうのも、昨日義理姉から知るという。
かしわもちにしようか、ケーキにしようか、何食べるかしか考えてなかった。笑
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